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漱石没後100年、予言どおりに亡びゆく「日本」

 ETV特集「漱石が見つめた近代〜没後100年、姜尚中がゆく」という番組(2016123日土曜日、午後11:00〜午前0:30)を観た。129日は、夏目漱石(186729日〜1916129日)の没後100年目に当たる。 漱石に私淑しているという政治学者、姜尚中が留学先のロンドン、旅順、大連、ハルビン、ソウルと漱石が辿った足跡を巡り、当時の時代の空気を想像しながら、各国の漱石研究家と東アジアと西欧列強という文明の相克に懊悩する漱石の今日的意義を探った。

漱石は18937月東京帝国大学英文科を卒業後、愛媛県松山中学校、熊本県の五高の先生を経て、19009月、ロンドン留学のため横浜港を後にする。ロンドンではコックニー訛りに悩まされると同時に、そもそも漢籍と英文学を同じ土俵で思索の対象とすることはできないと自室に閉じこもり、徹底的に文学の本質を追求した。

 

「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。・・・斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。・・・漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。・・・余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。・・・余は下宿に立て籠りたり。・・・此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。」(『文学論』序)

 

「漱石発狂」という噂も流され、急遽帰国を命じられた。1902125日にロンドンを発ち、帰国の途に就いた。

 時代背景として、漱石のロンドン留学を挟み、日清戦争(1894年〜1895年)と日露戦争(1904年〜1905年)が起きている。いずれも日本が勝利した。

 番組では、日露戦争後に発表された「三四郎」(1908年)から、一場面を引用した。主人公の三四郎が故郷の熊本から大学入学のため、上京する途中でのできごとである。

 

「・・・窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。女は上下ともまっ白な着物で、たいへん美しい。三四郎は生まれてから今日に至るまで西洋人というものを五、六人しか見たことがない。そのうちの二人は熊本の高等学校の教師で、その二人のうちの一人は運悪くせむしであった。女では宣教師を一人知っている。ずいぶんとんがった顔で、鱚または鰤に類していた。だから、こういう派手なきれいな西洋人は珍しいばかりではない。すこぶる上等に見える。三四郎は一生懸命にみとれていた。これではいばるのももっともだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。

 ところへ例の男が首を後から出して、

『まだ出そうもないのですかね』と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、

『ああ美しい』と小声に言って、すぐに生欠伸をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、

『どうも西洋人は美しいですね』と言った。

 三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、

『お互いは哀れだなあ』と言い出した。『こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない』と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

『しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、

『滅びるね』と言った。・・・」

 

 ここに、二人の漱石がいる。一人は西欧列強の一員である強国ロシアに勝った日本を誇らしく思う愛国者「三四郎」。もう一人は、西欧美にあこがれ、模倣する日本の行く末を案じる「広田先生」。東アジア文明=漢籍と西欧列強=英文学は拠って立つところが根本的に異なる。漱石がロンドンで見たものは、「ただ己のみを考うるあまたの人間に万金を与え候とも、ただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存じ候。欧州今日文明の失敗は明らかに貧富の懸隔はなはだしきに基因いたし候」という資本主義の矛盾だった。西欧文明の顰に倣うだけでは、こうした矛盾に突き当たり、(日本は国として)「亡びる」運命にあると100年前に見抜いている。大東亜戦争の先までお見通しだった。けだし、慧眼といわずしてなんというべきか。

 19091026日、初代韓国統監の伊藤博文がハルビンで朝鮮民族主義活動家、安重根に暗殺された。漱石は1か月前に、南満州鉄道総裁、中村是公の計らいで満州と朝鮮を旅行した際、ハルビンを訪れている。日清戦争後、日本が推す大院君派に対抗する、閔妃(李氏朝鮮第26代王、高宗の妃)は親ロシア政策を推進したため、189510月、日本軍に殺された。(乙未事変)漱石は閔妃が埋葬された洪陵も訪れている。安重根は、1910326日、午前9時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、死刑執行された。牢獄で自伝、「獄中記(安応七歴史)」と「東洋平和論」(序文のみ)を書き記した。東洋平和論では、日本、中国、韓国という東アジア三国が手を結び、西欧列強に比肩する力を持ちえないか、という理想を掲げている。

 漱石は、日露戦争の激戦地、203高地も訪れ、塹壕跡を仔細に検分している。乃木希典指揮の下、6万もの戦死者を出した。その多くが味方の砲弾に斃れたという。大砲の跡が今も残されている。

 漱石は、日本の富国強兵政策・近代化は外在的であるという。外在的=物真似である以上、西欧文明の奴隷に過ぎない。東アジアで培ってきた文化から内在的に進化のモーメンタムが起こせないものか―甲の波が乙波を呼び、さらに丙の波とつながっていく。文学作品の中に、その哲学をembedしようとしたのではないか。

 漱石が生きていた時代、アジアは欧米列強の植民地となっていた。中国は租借地に分割され、白人が主人であり、中国人たちは召使か奴隷でしかなかった。しかも、白人たちは、下等民族の中国人たちに高値でアヘンを売り、街中はアヘン中毒者で一杯だった。白人たちの居留区は隔離され、安全が確保されていた。米西戦争に勝利したアメリカはフィリピンを我が物にし、ハワイも力でもぎとった。

 当時の日本の指導者は西欧列強がひたひたと足元に迫りくる恐怖に居ても立ってもいられなくなった。このままいくと日本も植民地とされる。北海道はロシア、本州はアメリカとイギリス、九州はフランスに割譲されてしまう。その焦燥が大本営をして大東亜戦争に走らせた。それでは、あのとき、どうすればよかったのだろうか。ハル・ノートの要求通り、中国から完全撤退すべきだったのだろうか。

 トランプはさながら第2のペリーだ。ただし、今回は状況が異なる。中国も北朝鮮も独立国としてアメリカと対峙できている。いつの間にかアメリカの植民地となった日本はどうだろう。この期に及んで、覚せい剤にカジノか。「亡びる」しかないのかも知れない。


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  • 2017.07.01 Saturday
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